投稿日:2008-04-29 Tue
![]() | 舌の記憶 (新潮文庫 つ 22-2) (2007/07) 筒井 ともみ 商品詳細を見る |
それにしても、おにぎりというのはどうしてあんなにもおいしいのだろう。料理は数々あれど手料理が一番なのは明らかだが、その手作りというものがもっとも素直な形として届くのがおにぎりかもしれない。
(「手のひらに抱かれた米」より)
そうそう、そうなんですよねって心の中で何度もうなづいてしまう。
同時に、口の中で今まで何度もほおばった、たくさんのおにぎりの味を思い出している・・・。
春の茹でたけのこに苺ミルク、夏の白玉に熱々の水団。秋の茶碗蒸しに祭りの綿あめ、冬のおでんに微熱の野菜スープ・・・。
幼少の頃、一年を通して口にしてきた数々の食べ物を記憶から掬い上げ、丹念に綴ったエッセイ集。
食べ物についてのエッセイと聞くと、たとえば高峰秀子さんの「台所のオーケストラ」とか、(エッセイではなく小説なのだけれど)杉浦日向子さんの「4時のオヤツ」とか、なんとなくぼやぼやと楽しい感じを、知らず思い浮かべてる。
けれどこの本はちょっとちがう。たしかに食べ物はとてもおいしそうで「今すぐなにか作りたい!」と読んでて何度思ったかわからないくらい。けれどどこかで、危うさにも似た感覚を持ち続けてしまう。
それはたぶん、「おいしく食べること」と同時に「ひとりで生きてゆくこと」について、深く考えてきた筒井さんの記憶が伝わってくるからなのだろう。
神経を深く痛めていた伯母と、軋轢の絶えずアルコール漬けのスポンジのようになっていた伯父。無口で儚げな母親と、食が細く、微熱持ちの幼い「私」。
そんな4人の関係は、一家団欒というものからはおよそ遠いものだったという。
その中で作り食してきた数々の食べ物たちには、遠く静かな記憶が絡んでいる。
寄せ鍋の夕餉、私は小さな手で菜箸を握り、皆の皿に煮えごろの具を選り分けては盛ってあげたのを覚えている。何かしないでは入れなかったのだ。何もせずに何の気を遣わなくても「家族」でいられる安心感がなかったから、せっせと皆の皿によそってあげたのだ。 (「寄せ鍋嫌い」より)
けれどそれはたとえば、危うくはあるけれども「もの哀しい」とか「緊張を孕んだ」といった暗さとは程遠い。
たぶんそれは、おっとりとした母にはまかせられないからと手ずから水団の団子をつくり、四歳になったばかりのころに行った鶏屋で「心臓と砂肝もお願いします」と頼むような、「食べ物をおいしく」、そのことにだけはけして妥協しないという、強く健やかな心根が(筒井さん自身にも、そしてもちろんこの本にも)生きつづけているからなんじゃないかと思う。
私はいつも書き出しは「その本を一番よく表してて、そして何より私自身が好きになった一文」から始めることにしているのだけれど、今回は本当に大変だった。
なにせ、選択肢があまりに多すぎるから。それは好きというより「魅力的」といったほうがいいのだけれど、とにかく「この文から書き出したい!」と思うような一文が多すぎる。
というわけで、最後にもう一部分引用。
わたしは何度読み返しても、この文章を読むのが一番好きだったので。
台所からはおでんの暖ったかくていい匂いが漂っている。私は腕によりをかけて芥子を溶く。上手に溶きあがった芥子を伯母たちの鼻先へと持っていく。これが私の楽しみなのだ。すると伯母も母も、家の中ではめっぽう無口な伯父までもが、毎回毎回ちゃんと匂いを嗅いで「うぉー、辛いねぇ」と歓声を上げてくれる。これだけ辛ければおでんがおいしく食べられるぞという意味合いだ。 (「芥子とかせりゃ」より)
ことにエッセイ集などはさっさと手早く読んでしまう私なのだけれど、この本だけはじっくりと、それこそ味わうように読み進めながら、亡くなった祖母が揚げてくれた野菜の天ぷらと、祖母の笑顔を思い出していた。
舌の記憶を、ちょっと探ってみてください。
筒井ともみ 『舌の記憶』 新潮文庫
△ PAGE UP


